内藤閒喜さんインタビュー

ドイツでマンドリン製作を手がけ、演奏家としても幅広く活躍

内藤氏の視点にて藤掛廣幸との出会いから藤掛作品のエピソードを綴って頂きました。

内藤閒喜さん公式HP▶︎

プロフィール

1949年東京生まれ。
横浜国大工学部修士課程卒業。エンジニアとして企業勤務後、マンドリン製作を目指し退社。13歳の時マンドリンの演奏を比留間先生のもとで初め、その後杉原、久保田の各先生に師事。製作に関する情報を嶋田、冨樫、横内の各製作家に学ぶ。1981年渡独、佐藤一夫工房でギター・リュート製作法を学ぶ。ザールランド州オーケストラ、ドイチェ・ツプフオーケストラなどで、録音、演奏活動に参加する。ケルン大学音楽学音楽音響講座フリッケ教授のもとでマンドリン音響の研究に従事。1987年手工業会議所に登録、ケルンに工房を開設し本格的に製作を開始。ドイツ、日本での顧客の増加い伴い彼らと両国で合奏団を設立、新曲委嘱、将来期待される有望な演奏家を紹介する目的で相互交換演奏などを企画主催。2010年工房をラインランド=プファルツ州のヴェアト市に移転。コロナパンデミック前までこの地で設立したアンサンブルで演奏活動。

藤掛廣幸との出会い

会社に勤務している頃、出張で三重工場に行くことがしばしばありました。その頃横内さんのマンドリンの購入を考えていたので、出張のついでに何度か横内さんの工房を訪ね、楽器の試奏などをさせていただいていました。横内さんのマンドリンはE線のハイポジションの弾き易さ、音量を一途に目指した楽器でした。私の目指す楽器とは正反対とも言える音質、製作スタイルでしたが、彼の強烈な個性が表れた極めて独創的な楽器でぜひ欲しいと思っていました。機械で完璧な線を決め、水に浸かっても絶対に壊れないことを目指し、接着は最新の瞬間接着剤を使用という、初めはIKEAの家具を彷彿させる作品で心から受け入れられるというものではありませんでした。人の目を気にしながら自分の存在を社会の中でのバランスを考えながら生きるというのが当たり前の環境で育ってきた者には、横内さんとの出会いは強烈でした。「岐阜は日本の中心に位置するのだから本来首都は岐阜にあるべきだ。」、「マンドリンは岐阜から世界に広がっていく。」などと会うたびに興味深い意見が聞けました。

その横内さんが当時主宰していたチンチロリン合奏団の演奏会で藤掛さんの新曲初演をするというので招待されました。演奏会の客席は満員で、初演への期待でかなりの熱気が感じられました。この新曲は混成4部合唱、演出付きのマンドリン合奏団のための「八つのバラード」という曲でした。横内さんの作りかけのマンドリンの端材を打楽器として奏者が自由奔放に叩くなど、斬新なアイデアも組み込まれ、かなり盛り上がった楽しい演奏会で、大成功だったと思います。

その後の打ち上げで横内さんから藤掛さんをご紹介いただき、ドイツへ行くまでの数年間親しく交流させていただく機会となりました。中条雅二さんという岐阜の風情を詩で表現している詩人の作品に藤掛さんが作曲した作品で、初演の指揮者は平光保さんという藤掛さんの親しい友人でした。本曲が一番初めに拝聴した藤掛さんの作品でした。藤掛さんとの出会いから交流が始まり、マンドリンオーケストラのために作曲された「パストラル ファンタジー」(1975)、「じょんがら」(1977)、「トレピック プレリュード」(1990)などの作品も当時藤掛さんからプレゼントしてい頂きました。ドイツで結成したアンサンブル(カメラータ・コルドフォーニア・コロニエンシス)と日本で結成した合奏団(東京ツプフアンサンブル)で、何度も演奏させて頂きました。両合奏団一緒にドイツ、フランスでの演奏旅行をした時も、これらの曲をプログラムに入れました。これらの曲は本来大オーケストラで演奏すべき曲ですが、残念ながら毎回小規模オーケストラの演奏でした。

中条雅二の詩による 八つのバラード (1975)

渡独した年の夏にザールランドの夏期ゼミナールに講師を依頼され、言葉も儘ならぬまま参加しましたが、講師の資格などもなかったので同時に受講し試験はソロを演奏するようにと指示されました。そこでアンサンブルの指導もしましたが、参加者から日本の曲が演奏したいという希望があり、「八つのバラード」からメロディーと歌詞をたまたま覚えていた「青いへちま」からパート譜を作りドイツの子供たちと車座になって歌いながら演奏しました。渡独して数ヶ月経った時のことであり、楽譜などを持ってきていなかったので咄嗟のアイデアでこのような形の発表演奏会になりました。すぐに頭に入る印象的な曲であり、ドイツ人にも発音しやすい歌詞だったので、その後2~3年経ってからあった幾人かがその時点でも口ずさんでいました。

その後ケルンで合奏団を設立し、藤掛さんの本来マンドリンオーケストラ用に書かれた初期の作品を小編成の形で何度も演奏しましたが、毎回良い評判でした。「八つのバラード」の中からは「青いへちま」、「木馬」、「固いくるみ」、「からす」、「星の子供」など数曲を小編成で、当時ケルン音大声楽科に留学していた東京芸大大学院出身のメゾソプラノの下村さんと何度も共演しました。ケルンのメンバーは学業の成績も良い優秀な人たちで、日本にいた時のように新しい作品、珍しい作品にも好奇心を持って積極的に取り組んでくれたので大助かりで、やりたいプロジェクトがスムーズにできたのは幸いでした。一般に新しいことにすぐ飛びつくような人は珍しく、やたらと文句、イチャモンをつける人が多い中でこういうお客さん兼演奏仲間との出会いは貴重だったと言えます。

ももいろのきりん(1972)

藤掛さんの音大修論作品として、中川季枝子作、中川宗弥絵による絵本「ももいろのきりん」にピアノ伴奏による児童合唱のための作品として作曲した作品と伺っています。この作品のピアノスコアを頂きました。その頃私の小中学校同期の友人、木村吉男君が早稲田大学のマンドリンクラブ(早稲田大学マンドリン楽部)に入ったことから、彼を通じて同クラブの同世代および前後の世代のマンドリン仲間と友好関係ができました。彼らのうち各パートトップを務めた友人たちが、卒業後ムセオムジカというアンサンブルを結成したことから私も参加させて頂きました。第4回演奏会の企画を話し合った際、「ももいろのきりん」の話をしたところ、合奏団の中心メンバーとして積極的に活躍していたコンマスの吉川文康君が興味を示し、彼のアイデアだったと思いますがスライドミュージカルという形の作品を仕上げ、マンドリン合奏で演奏しました。藤掛さん、横内さんも聴きに来られ、「東京にもこんな面白い合奏団があるのか?!」と感心しておられたと思います。

マンドリン演奏も達者で多才な吉川君が企画構成し、スライド用の絵を内海京子さん(女子美大出身)が描き、宮島信治君がスライドを作成、当時民放のアナウンサーをしていた大橋照子さんがナレーションという構成で演奏しました。藤掛さんがこの作品の中からメルヘン1番、2番としてマンドリン合奏用に編曲した作品のいくつかはそのまま演奏しましたが、その他の曲は吉川君を中心にメンバーで編曲したと思います。ストーリーは、主人公である「るるこ」という女の子が大きな紙を切り抜きキリカという名のきりんを作ります。その頃クレヨン山のオレンジ熊が山を支配しているために、動物たちは自分の体をクレヨンで塗ってきれいにすることができません。このオレンジ熊を「るるこ」が背中に乗ったキリカが退治するという内容です。

宮島君からスライドを頂いていたのでドイツでも講演の機会を狙っていました。間も無く母が趣味で作っていたちぎり絵の遺作展示をする機会が訪れ、紙博物館なども絡んでいたことから紙からできたキリカ、コンセプトも芸術が悪を退治し世界を平和にする助けになるという子供の教育効果も組み入れて新たな企画構成をしました。ここでは原作品をドイツ語に翻訳、各年齢層の人たち数人による役割分担でダイアローグ形式にストーリーをまとめ、下村さんのメゾソプラノでコーラスの代替えとした作品にしスライドとともにアンサンブルで演奏しました。メルヘン以外の曲は藤掛さんの「トレピック・プレリュード」を演奏曲に使ったり、「ふるさと紀行」に使われた小品の数々を使わせて頂きました。幸い大ホールや国際交流基金の支援を受け、ケルンにある日本文化会館でも公演できました。大ホールでの演奏会は、残念ながら街の大きなお祭りと重なり客席には空席が目立ちましたが、日本文化会館は満席でした。オペラ関係の人なども子供を連れて来てくれ、未熟な構成で恥ずかしさはありましたが、小さい子供も最後まで真剣に静かに聴いてくれ、雨に濡れて死にそうになったキリカの場面では泣く子もいました。歌劇場の脚本家の方からは積極的に応援してくれる提案まであり、次回には台本の改訂などに関してもいくつかアドバイスもいただきました。さらなる公演も可能だったのですが、メンバーの多くがちょうど卒業試験、国家試験、就職試験などを受ける時期になってしまい、残念ながら実現しませんでした。その頃藤掛さんにもご報告し、更にご協力いただけるようだったのですが、メンバーの就職活動の時期、資金調達の面で具体的目処がつかなかった時期と重なりこの点は非常に残念でなりません。

パストラルファンタジー(1975)

「パストラル ファンタジー」が作曲コンクールで2位に入賞した際、審査委員長の服部正氏から「マンドリン合奏にこういう曲を書いていてはダメだよ!」と言われたと藤掛さんが苦笑いしていたのが印象的でした。このような反応はエポックメーキングなことが起こる際にはつきもので、決して悪い反応ではないと言えます。従来の評価基準が既に古くなっているということの証でもあるでしょう。この曲はドイツでも日本ほどではありませんがたまに演奏されているようです。ドイツでは大曲に属すること、マンドセロが通常使われていないことによると思われます。

じょんがら(1977)

藤掛さんがマンドリンのパーカッション的な演奏効果に着目して作曲された「じょんがら」になると、他文化に興味を持ち知的好奇心が旺盛なメンバーが一定数存在する必要であるのかもしれないと経験から思います。ドイツのマンドリン合奏は、労働者階級の人々の情操教育の一環として音楽に親しむことを目的に発展してきた歴史があります。努力せずに容易に合奏を楽しめるということでマンドセロなども消失したと考えられますし、この意識が今でも根強く残っていると感じられます。マンドリン、ギターを習うのにとにかくお金を使わないこともその一例です。音楽の才能のある子供が弦高の高い弾きにくいマンドリンを使っていたのを、当然のことながら先生が楽器の調整を勧めたそうです。親はそんなことにお金は出せないといい、指を強くして弾きなさいと子供に言い続け、挙句の果てにその子はやめてしまいました。別に親が貧しいわけではありません。親は仲間と100ユーロもするようなワインを飲むのが趣味ですから。

トレピック プレリュード(1990)

「トレピック プレリュード」は作曲完成当時、藤掛さんご自身が会心の作品とおっしゃっていたように思います。私たちも飽きることなく何度も演奏させて頂き、毎回お客さんも喜んでくれた作品の一つです。ケルンのアンサンブルの練習は私の工房でしていました。当時私の工房のすぐ裏にショパンコンクールで優勝したスタニスラフ・ブーニン氏が住んでいました。彼が家のバルコニーから我々の練習を聴いていたようで、後日会った際「ロシアの曲を練習していたんだろう?」と言われました。ロシアの曲はその頃は1曲もなかったので変に思いその旨返事しましたが、「ロシアでよく聴いた曲に間違いない」と言った後、「あのa-mollの曲だ」ということで「トレピック プレリュード」をロシアの曲と勘違いしていたことが明らかになりました。以前ドムラをいくつか製作しましたが、注文楽器を製作する前に自分用に試作した3弦ドムラを所持していました。その後南ドイツへ移った際、隣町のカールスルーエにドイツで唯一のバラライカオーケストラがあることを知り参加しました。コール首相の時代に、日本がブラジルに移住した元日本人を呼び戻すように、ドイツもロシアへ移住した元ドイツ系住民をドイツへ好条件で呼び戻す政策を開始しました。それにより、ドイツから見るとユーラシア大陸の隅々まで、日本以外は急に世界が小さくなった感じです。バラライカオーケストラのメンバーからアクチュアルなロシアの情報が得られ、昔ヒットした双子姉妹の歌手「ザ・ピーナッツ」などはかなり有名で、彼女たちの歌った曲のいくつかはバラライカオーケストラ用に編曲され演奏されています。ロシアにはロシアロマンスというジャンルの美しい曲が多くあり、日本人がロシア民謡を好むのと共通の感性もあります。「トレピック プレリュード」をドイツ系ロシア人のブーニン氏がロシアの曲と勘違いしても不思議ではないかもしれません。

演奏した数々の藤掛作品

ドイツへ来てからは藤掛さんが東海テレビの連載長寿番組「ふるさと紀行」のバックミュージックとして作曲された作品の数々をマンドリン合奏用に編曲、出版された作品を購入し、ハウスコンサート、サロンコンサートやアンコールなどで数多く演奏しました。これらの作品も毎回数多くの人に喜んでもらえ良い反応が返ってきました。ケルン大学で講師を勤める友人は大の藤掛ファンで、彼の葬儀には必ず藤掛さんの曲を演奏してほしいと今から遺書に書いておきたいとまで言っています。彼の邸宅で時折サロンコンサートを企画してくれましたが、ドイツの著名な社会学者、全ドイツに支店を持つメデイア会社の社長、芸術家、知識人などが毎回来てくれ、藤掛さんの曲をリクエストされます。

ピアノ伴奏によるマンドリンソロの演奏会では藤掛さんの初期の作品「ロマンス  I」「ロマンス  II」、「月の光」などもよく演奏しました。それ以外ではピアノ伴奏によるマンドリンソロ曲で「じょんがら」が特に印象に残っています。数小節、ピアニストにとって弾きにくい箇所があるようです。

ケルン音大に留学していた日本人女性と演奏した際、繰り返しが多いので一部カットしないかという提案があったので了解しました。その後、別の機会に国際コンクールにも入賞した経験のあるロシア人のピアニストと共演する機会がありました。彼女曰く、「この曲は前に弾いたことがあるのか? その時は誰が伴奏したのか? 伴奏者は弾けたのか?」と変なことを訊くので理由を伺ったわけですが、彼女の説明で上述のことがわかりました。

他に入手した曲には「アクアリズム I」、「アクアリズム  II』、「エンジェルコーラス」、既述した「ふるさと紀行」からの小品の数々があります。「アクアリズム I」は私たちのアンサンブルでは演奏したことはありませんが、ドイツの合奏団に紹介、そこでは何度か演奏されました。「エンジェルコーラス」や「ふるさと紀行」の小品の数々は何度も演奏し、演奏の都度聴いた人から楽譜の求め方などを毎回聞かれました。特に「エンジェルコーラス」は近隣のマンドリンオーケストラでも何度も演奏されているようです。出だしの動機部の3音は成田空港から都心へ向かう成田エクスプレスの車内放送が始まる際に必ず鳴り響く旋律と同じで、一緒に行ったドイツ人でさえすぐに「エンジェルコーラス」を思い出し「藤掛の曲だ!」と言うほどです。

藤掛廣幸への期待

藤掛さんの好みではない現代音楽は、心に響く旋律を伴う音楽とは具象画と抽象画の違いにも似て楽しみ方が違うと言えるかもしれません。前者は放送局が支援したりするケースが多く、客が入らなくても支援されることが多いです。後者はアマチュア音楽の世界に留まることがほとんどでファンは多くても表に出て来ません。アスコルタという現代音楽専門アンサンブルの演奏会に招待された時のこと、曲はカーターの「ルイメン」で演奏者7人、指揮者1人、客数12~13人でした。奏者はハープを除いて音大教授とかオケのトップ奏者がほとんどでしたが、チケット捥ぎから椅子並べまで自分達で本当に楽しそうにやっていました。ハープの女性のみ学生でした。なんでもあまりに難しいので南ドイツ一帯ではプロの奏者は皆断り誰も見つからなかったそうです。勇気ある女子学生が孤軍奮闘していましたが、他のメンバーとのレベルの差が大きく気の毒でした。音大の教授であろうとオケのメンバーであろうと、一定収入を代償に所詮管理社会に置かれた身ですから、自分の意志でやりたい音楽ができるという喜びは計り知れないものなのだろうと推察できます。

今年もマンドリンの入った現代曲の新作がサミュエル・アンドレイエフ、エンノ・ポッペなどにより発表され、これらは放送、録音などもされます。現代曲は何か新しいことに挑戦する喜びを楽しむことなのかもしれません。

当時ベーレントの指揮するドイチェ・ツプフオーケストラに所属していた時も絶えず現代曲の新作を演奏、録音していました。今考えるとそれらの曲は単に新しい試みを模索するような印象しか残っていません。ケルン大学にいた頃は作曲家志望のバルバラと言うオルガニストの友人がマンドリンとオルガンの曲を作曲してくれ、教会でよく演奏しました。ベーレントもバルバラも実に意欲的で作曲が好きでたまらないということが心底滲み出ていました。リゲテイ、ザッパなど心から面白いと思った曲もあります。一般的に演奏技術、音楽的な難曲が多く、音大のマンドリン科を出てもこれら難曲をクリアできずに最初の練習で即演奏参加を却下されるケースも多々聞きます。藤掛さんが「八つのバラード」の初演で不満足ながら公演できたのはアマチュア合奏団ならではのことです。プロ的に練習したら良い演奏のできる可能性はあっても奏者がいなくなるかもしれません。

藤掛さんにも1曲ぐらいマンドリンの入った現代曲があると新たなマンドリン音楽の面白い展開がある気がします。それこそ「縄文譜」を書かれた時のような自信にあふれた「これで必ず世界は変わります!」とご自身が言われるような曲を期待してしまいます。

 

※内藤氏の許諾を得て寄稿原文から抜粋編集したものです。